父の命日

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本日は父の命日。他界から早2年が過ぎました。

もう2年なのかまだ2年なのか、ありがたくも月日は進み、残酷にも悲しみは薄れて行きます。

 

 

去年は総出で墓参りに行きました。

 

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 が、今年は行かず。

 

秋川さんの歌じゃないけどそこに行けば会えるわけじゃないしね。

 

千の風になって

 

以下、他界から1~2か月経ったころに記録として書いたものを載せておきます。

長文です。

臨終から葬儀終了までをメモ的に書いたものですが、楽しい読み物ではないと思うのでそういう耐性がない方は読むのはお控えください。

 

***

 

5月6日の早朝母から電話。


「病院から、お父さんの容態がよくないと電話があった」

 

とりあえず家を飛び出し、病院に着いたのは9時ごろ。

意識はなく呼びかけへの反応はないが、そう重大な状態にも見受けられなかった。

 

 昼ごろ医者から検査結果と状態の説明。

数値が非常に悪く、かなり厳しい、今日明日がヤマだろうとのこと。

実際にベッドのそばについていても実感は湧いてこない。

結局乗り切れちゃうんじゃないの、くらいの感じだった。

 

その後兄も到着。状態の変わらない父の傍で3人で過ごす。

 

今日明日はついていたほうがいいとの病院の勧めで、病院内の和室に泊まらせてもらうことになった。

 

20時ごろになるとそれぞれ疲れてくる。

夜の長さにふとゾッとした。

 

母と兄は交代で和室で仮眠を取ったが、わたしは病室を動かなかった。

 

翌7日0時半ごろ容態が変化。

 

呼吸状態が著しく下がり、心拍もみるみる弱まって行くのが見てわかる。

ナースさんが手当てをしつつ「お母さんを呼んだ方がいいかも」

 

別室で休んでいた母のもとへ、薄暗い院内を小走りで慌てて呼びに行く。

無事母を連れ病室へ。まだ息はあったが、どうみても父の命は風前の灯だった。

 

こういうときなんと声をかけるものか、ふと困った。

 

ここは長期療養の病院。すでに人生を走り切ったものが静かに海原に溶けるのを待つ場所。

入院時にも

 「延命措置はしない」旨を家族の総意で了解のうえでサインをした。

 

もういまにも目の前の父は苦しかった日々を終えようとしている。

手術からこっち、ままならぬ自分の体にどれほど苦しめられて来たろう。

やっと楽になれるのだ。

 

年齢だって81。世間に照らしたってじゅうぶんすぎるほど生きた。大往生だ。

 

それでも、お疲れ様という言葉はついにわたしの口からは出なかった。

 

この期に及んで

 

「まだ待って!まだ行かないで、もう少しがんばって!」

 

とすがりついて泣きたくなる自分の気持ちを抑えるのに精一杯だったから。

ただ唇を噛んで、ゆっくりと消えて行く父の命を眺めていた。

 

ようやくかけられた一言は

 

「お父さん、みんないるからね」

 

2時12分、父の生命を示す機械の波はすべて停止した。

 

 

魂の無くなった父の体から、つながっていた管を取り外し綺麗にしてくれる作業に2時間ほどを要した。

 

葬儀場に遺体の引き取りを手配し、突き上げては飽きずに流れる涙をそのままに家族3人なかば呆然とした心持で待っていた。

 

作業の済んだ病室へ戻ると、すでに蝋人形のような顔色になっている父だったものが横たわっていた。

 

そっと顔に触れると、まだ温かく、柔らかい。

 

病院内で死に水をとらせてくれた。

病院の性格上、スタッフはそういうことに慣れている。当然のことだし尊い職業であることに変わりはない。

精一杯よくしてもらったし感謝しかない。

 

それでも、その事実は残酷に映った。

 

 

ほどなくして葬儀場の車が着いた。

 

父の遺体が積まれ、兄が同乗。

病院のスタッフと警備担当のかたまでお辞儀をして見送ってくれた。

 

心底からありがたい気持ちと、どこかそらぞらしい気持ちが半々で、かえって少し冷静になれた。

 

わたしと母はタクシーでその後を追った。

 

 

朝5時ごろ。妙にいい天気で、山の緑と空の青が眩しい朝だった。

父はこの美しい朝を迎えられなかったな、とぼんやり思いながらタクシーの窓の外を眺めた。

 

 

葬儀場に安置された父に線香をあげると、一度帰宅して休んだ。


実際にはまるで休めなかったが、とりあえず火葬場の許可が出て葬儀の日程が決まるまではやれることがなかったからだ。

 

何度か葬儀場と家を往復して、日取りが決まると関係者に電話連絡。

母が話している最中に泣き崩れてしまうため何度か電話を替わった。

 

その日の午後にまた葬儀場へ行き、詳細の打ち合わせ。


この打ち合わせは、不謹慎だが結婚式みたいだなと思った。

 やれ祭壇やら骨壺はどれにするかとか、出棺時の車はどれがいいかだの、悲しみもどこへやら親父の思い出話を交えつつなかばウキウキとあれこれを選んだ。

 

もちろんお金がかかることなので見積もりが上がってくるまでは多少ドキドキしたが、幸い父は葬儀に足る程度の金は残してくれていた。


お高い病院へ入ってそれを削っている時間を縮めて、自分の華やかな葬儀に足る額を残して逝くことを計算していたのかと思うくらい。

 

打ち合わせ中、父の生い立ちやらの話になった時、あまりいい言葉ではないと知りつつそれを越える適切な言葉が見当たらなかったため


「父は若くして出奔した」


と述べると、母兄、担当者の3人が声を合わせて

 

「しゅっぽん?」


と訊き返してきたことで場は大笑いになった。

 


以降こうした微妙な言葉をわたしが使うたびまわりの人がオウム返しをする図ができてしまい、そのたびに妙なおかしみがのぼってくる。

 

悲しいはずなのに大きな声で笑えてしまうし、腹が減ればものも食ってしまう。そして腹が膨れれば眠くもなる。


その日の夜は、それなりに眠った。

 

明けて8日。


通夜は9日、葬儀は10日と決まった。まずは喪服一式を取りに自宅へ一度戻らねばならない。
朝食もそこそこに母と兄に雑事を託し電車に乗った。

 

さかのぼること1週間、GWのはじめに多忙だったはむぺむにお休みが取れたため、ふたりで父の見舞いへ行った。

はむぺむが行くのは正月以来。
はじめは彼が誰だか思い出せなかった様子の父も、時間が経つうちに思い出してきたようで、彼の名前や仕事をボードにのたうつ字で書いた。

 

そしてしきりに、はむぺむと握手をしたがった。

 

その手の力は意外なほど強く、執拗なほど何度も何度も握手をしていた。
母やわたしとは握手なんてしないのに。

 

今思えば、父は自分の命の残り時間を察知していたのだろう。

わたしのことを、彼に頼んだのだ。声を出せない父に残された、ありったけの方法で。

 

電車内で何度もこみあげる涙を飲み下しながらどうにか自宅へいったん帰宅。
喪服一式やら必要なものをひととおり揃えてコロコロバッグに詰め込み、支度を整えると風呂へ入った。

 

シャワーを浴びながら、わたしは声を上げて泣いた。

 

 

身支度を終えると電車に乗って家族のもとへ。

 

父のいる葬儀場の安置室へ行くと兄と一緒に義姉が来てくれていた。
遠方の上男子並にバリバリの仕事人間だが、仕事を抱えつつ駆けつけてくれた。

入院時からそうだがなかなか涙もろい彼女はいつも周りの人に実の娘と勘違いされている(そしてわたしが外の人と思われている)。


枕花は父の好きな青色でまとめた。父はもともと白かった顔をなおさら白くして眠っているように見える。


しばらく父の傍で話をして、顔を見て、触れて、また泣いて。
離れがたくもあったが通夜は明日。後ろ髪を引かれる思いでいったん帰宅。


母を囲んで夕食。
元気におなか一杯食べた。よく笑った。何を話したかなんて覚えてないけど。


不思議だが、父の遺体のそばだと泣けてくる。
父の姿を見るだけで涙は止まらない。
でも、離れると全然大丈夫なんだなあ。

 


入院前は足しげく実家に行くようなタイプではなかった。
よくて2~3年に1回会いに行けばいい方だ。
両親を尊敬しているし感謝はしているが、大好きでいつも会いたいと思うような間柄ではなかった。

 

現金なもので、入院してからの方が圧倒的に会いに行く頻度は上がった。

残り時間の少なさに焦った部分もあったのかもしれないし、
あるいは会いに行く口実ができたから行きやすくなったのかもしれない。

 

亡くなったから過剰に美化するつもりもなかったが、

それでもやはり死んだことでその存在のありがたさを再確認できたことは事実だった。

 

明日は通夜。さまざまな雑事に忙殺されつつもたくさん泣くんだろうな。

 

 

通夜当日。

昼ごろはむぺむが駆けつけてくれた。多忙なスケジュールを縫って時間を作ってくれて、葬儀が済むまでずっとずっとそばにいてくれた。本当に心強かった。
逆にそばにいてくれたことで安心して弱ってしまった部分もあったが。

 

湯灌の儀というのが執り行われた。
父を棺におさめるまえに、身体を綺麗に洗って服を着せてくれる儀式だ。身内だけで見守った。
身体を洗われている父はとても気持ちよさそうで、角度が変わるたびにまるで笑っているようにさえ見え。
とてもとても泣けた儀式だった。
父のお気に入りの一張羅スーツを着せてもらい棺に入った。


受付を担当してくれる親族が到着し、そこから続々と親族が来てくれた。
遠方の人も、普段ほとんど付き合いのない人も、それぞれがあたたかい言葉をかけてくれた。

たくさんの花も頂き、華やかな祭壇になった。
派手好き見栄っ張りの父もさぞかし満足だろう。


肝心の式は両親の信仰の関係でちょいとグダグダだったが、それでもわざわざ来てくれた人たちの気持ちは伝わってきた。
来てくれた人たちに挨拶、通夜ぶるまいとあっという間に時間は過ぎ、親族だけが残った。
はむぺむは遠方の親族と一緒に宿へ引き揚げてもらった。しばらく酒を飲むだろう。


通夜と言うのはわたし恥ずかしながら知らなかったのだが、親族は朝まで線香絶やさずそばにいていいんだね。
夜通しいるから通夜なんだ。


それを教えてくれたのは義姉とその家族。
朝まで付き添うと言ってくれたので、葬儀場にみんなして泊まり込むことになった。

最初から葬儀場に宿泊予定だった母方の親族と明け方まで父の祭壇の前で酒盛り。
父は酒は飲めない人だったが、みんなでワイワイしているのを見て喜んでくれたことだろう。


ひとり優しくて酒癖の悪い従兄弟が朝までおじさんと飲むんだと言ってくれていたが

「わたしが朝まで付き添ってさめざめ泣くんだからもう寝て」
と頼んだ。2時頃までには親族はみんな引き揚げて休んでもらい、母も寝かせた。


兄とわたしで交代で線香をあげつづけた。
義姉も付き合ってくれていたが、ときどき仕事で外していた。本当にお疲れ様だ。

 

夜が明けてくるまで、祭壇の前をうろうろ歩き回り、タバコを吸いに玄関まで行き、また戻ってきては父の顔を見てさめざめ泣いた。


きょうの葬儀が終わったら父は焼かれて骨になる。
そうしたらこうやって顔を見ることももうできないんだ。


そう思うと悲しくて悲しくて、悲しかった。

 

 

朝まで線香を絶やさずに迎えた葬儀。


あっという間に式は進み、いよいよ棺を閉める時に号泣。

花で埋め尽くした父の顔を忘れないように一生懸命目に焼き付ける。
色の白いお父さん、若く見えるお父さん、スーツの似合うお父さん。

 

もうこれで、ほんとうに永久にお別れなんだ。

 

親族の女性も何人か一緒に泣いてくれていた。

 


実は入院からずっとはむぺむのご両親が見舞いに来たいといってくれていたが、喋れないのでと遠慮し続けていた。
だがこれ以上状況はよくならないと踏んだので、5月の8日にお見舞いに来てもらうことになっていた。

 

義母が棺の父を見ながら

「もう少し待ってくだされば…」

と目を赤くして呟いた台詞が忘れられない。


あるいはそれもあって死に急いだのかもしれなかった。


はむぺむとの握手、その後兄夫婦が来たときに一時的に意識がはっきりしたこと、そして8日の約束を前に亡くなったこと、すべてが計算され尽くされていたようにすら思える。


おまけに命日となった5月7日は、奇しくもわたしとはむぺむそれぞれの両親同士のはじめての会食の日だった。


単なる偶然だろうけどね。

 

 

「お別れでございます」

と念を押され、蓋が閉められた。

 

もう二度と顔を見ることが叶わない。

そこにあったのは父であったいれものだが、そのいれものが見られなくなるだけで涙が止まらなかった。

 

火葬場へ移動し、そこから1時間足らずで父は骨と灰になった。

 

 

骨の父といっしょに葬儀場へ戻ってきて親族だけで食事。


父の分も出してもらい、普段なかなか顔を合わせることのない身内たちとしばし楽しい時間を過ごせた。
特に従兄弟同士はめったに会う機会もないが、それぞれにちゃんと大人になっていて、困った時には助け合えるだろう。
あまりそういう言い方はしたくないが、正直血族はありがたいものだ。

 

無事にすべての行程を終え、抜け殻のような気持ちでその後数日間を過ごした。

・・・といえればいいのだろうが、なかなか人が死ぬとあれこれ非常にめんどくさい。

 

アレコレの面倒な手続き、続々と押し寄せてくれる弔問客、香典、引き出物、電話に手紙にお返し各種。
遺品整理の暇すらなく、あっという間に1週間。

 

自分の方の暮らしが完全にストップしてしまって、しかもそれに気づけないほど忙殺された。

悲しみに暮れている暇なんて本当になかった。

 

ようやくひととおり落ち着きを取り戻し帰宅、はむぺむの懸案事項も片付き日常が戻ってきたこの頃。

もう今週末には納骨だ。

 


墓が遠いのが悩みの種。

墓参りは年に1回行ければいいほうか。

 

もっとも、生前も元気なころは年に1回くらいしか会ってなかったから、そんなもんで充分かね。

 

***

 

生前にも病院でいろんな知らないことや勉強になったこともあって、そういうのもいつかまとめたいなと思いながら気が付けばあっという間に2年も経っていた。

 

いまでも行けば会える気がしているし、かといって実際行ってそこに父がいなくても過剰に悲しいと思うこともない。

受け容れられていないわけでもなく、でも「父はもういないんだ」と意識することも少ない。

至極自然に、時間が生活を取り戻してくれた。

 

この先まだいくつかの辛く悲しい別れは約束されているけれど、それを想像して身動き取れなくなるのもバカバカしい。

したたかに、しなやかに、自然に笑顔で生きていけたらいいな、と日々思っている。

 

 
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