目を見張るほどの良文を書けるような性質ではないが、言葉は大事にしている。
言葉はすごい力を持っている。
じょうずに使えば自分の心のうちを遠く離れた人にわかってもらえるし、受け取ってくれた人がじょうずに読み解く能力を持っていれば驚くほど真理に近く寄り添ってくれることもある。
同様に、へたに使えば簡単に人を傷つけることもできる。
なんとなく嫌な気持ちにさせることも、焦燥感を煽ることも、無意識になにかをさせることすらできてしまう。
言葉は行動をコントロールするほどの力を持っている。
ヒトとヒトとの交流は言葉なしでは成り立たない。お互いに言葉を重ねて行くから理解が深まる。
だがネットという至極便利なモノが発達して、ブログだのツイッターだのがのさばっている現在のカタチを見るにつけ、コレは「交流」ではない、と感じる。
ただの「一方通行の発信」だ。
ほとんどのヘビーユーザーが「書き捨て」意識でいるんだと思う。
ヒトの反応なんてべつに気にしない、反応あれば嬉しいな、くらいなスタンスで。
ネットがなかった時代に目にできた「一方通行の発信」は、限りなく厳選されたものであったはずだ。新聞しかり雑誌しかり。
しかし今では書き捨て意識のあふれにあふれた言葉の海。
言うまでもなくわたしの書いてるものもその海にひと役買っちゃってるわけで。
言葉は怖い。
まさに玉石混交の言葉の海からどんな言葉を拾ってどう生きるか。
これから必要なのは「読む力」と自分に不利益な情報を「捨てる力」なんだろう。
なにやら切ないご時世だ。過ぎたるは及ばざるが如し。
とはいえネットが普及して言葉が氾濫している現状を悪いことだとは思っていない。
いやむしろ歓迎すべき状態だ。
誰でもが手軽に表現できるようになったのは喜ばしいことだ。
以前のように、ときに人を煙に巻くような小難しいエラそうな人たちの話をありがたがって読んだりしなくてよくなった、だけでも十二分にスバラシイ。
そんなことしなくたって巷にゃ素人名文書きがあふれている。
単純に数が多けりゃ当たりも出る。こんだけ人間がいるんだからいいモノが転がってるのも道理だ。
だから、やってる当人さえ構わなければ別に慎重に言葉を選ぶ必要もないし、好きなモノを好きなだけ表現すればいい。
伴う可能性のあるトラブルを享受できる覚悟さえあれば、極端な話垂れ流しだって全然構いやしない。
せっかく裾野が広がって、表現する楽しさを知ってきた人たちに「慎重になれよ」とか「クオリティに気を付けろ」なんて言ったら、どんどんやめてっちゃう。
仕事でも義務でもなく、ただ楽しくやってるだけなのにそんなハードルが上がってったら誰も書かなくなっちゃう。
それはあまりにもったいなさすぎる。
ホントに単純に「受ける側」の意識とスキルの問題であって、発信する側はなんの制限もなくのびのびと今まで以上にやるべきだと思うのさ。
ただ。
問題にしたいのは、「一方的な発信」をしたからと言って、あるいは「一方的に受け取って」いたからと言って、それがイコールで「交流」ではないんだ、ということ。
たとえばコレは自身の話になるが、毎日ご苦労さんにさまざまな主張を垂れ流していることで、わたしはわたしという人間を読んでくれている人にわかってもらえてる気になる、ことがある。
これ大間違いね。
まず読んでくれてるかどうかなんて、誰がどんな温度で読んでくれてるかなんてわかんない。
それを読んでいいと思ったか嫌だと思ったか、とにかく「一方的」ゆえに相手の反応を知るすべは少ない。
「読んでいるほう」の立場のときもご同様。一方的に読んでいるからいろんなことをわかっている、知っている。
でも当然、自分のことを相手はまるで知らなかったりするわけでさ。
この「距離感の差」というか、わかった気になっちゃう感がときどき怖いなと思う。
発信は簡単だが交流は難しい。
片思いは自由だが恋愛となると双方の心の機微が大事、ってのに似ているかな。
もっとも、ごくまれに劇的な恋愛に昇華することもあって、それが好きで発信をやめられないでいるのだがね。